「ひょんなことからWeb制作を再開したので、そのことについて書いてみよう...」と書き始めたが、「ひょんなことから」で合ってるのかなって不安になった。確かに、明確な理由や動機はなく、何気なく始めたので、「ひょんなことから」でいいのかもしれないし、そもそもそんなことを真面目に考える必要さえないのかもしれない。ただ、改めてこれまでを振り返ってみると、小さな囁きやノイズみたいなものは確かに僕のそばにあった。そして、今、その小さな囁きは怒号となって、もう無視できなくなってしまった。少し昔の話をしたいと思う。あれはおそらく5年前の秋頃だったと思う。警備員さんの足音が響く深夜の大学、講義室の大きなホワイトボードの前で、ひとりで立っていた。大学3年の後期ということもあって、同級生の関心は大学卒業後の進路で持ちきりだった。自分はというと、大学卒業後の進路のことなど考えたこともなかった。というよりも、これまでも将来設計とか、これから先どうしたいとか考えたことがなかった。その時々の自分の興味に合わせて、選択していたと思う。でも、同級生を観察してみると、それなりに不安を抱きながら、苦しみながら、自身の将来について悩んでいるようだった。そんな数週間を過ごす中で、もっと自分の将来について考えた方がいいのではないか、将来設計って大切なのではないかと思うようになった。そんなこんなで、自分の将来ついて考えてみようと思い、深夜の講義室にやってきた。深夜なのは、周りに見られると恥ずかしいと思ったのでこの時間帯にした。しかし、この話のオチを最初に言ってしまうと、この恥ずかしいという不安は、全く別の不安に置き換わってしまい、今夜ここに来たことを後悔することになる(今では感謝している)。話を戻して、深夜の講義室で、何も書かれていないホワイトボードの前に立っているわけだが、その理由は簡単で、今後の将来について書き出そうと思ったからだ。ただ、自分の将来については最後の方で考えるとして、まずはこれまでの自分自身について書き出そうと思った。自分に関するキーワードがたくさん書き出されれば、自ずと自分の将来が見えてくると思ったからである。「では、書こう。」と決めてから、数分、数十分、1時間、1時間半、数時間、、、どれだけ時間を費やしても何も書けなかった。自分が得意なことって、自分の好きなことって、自分に向いてることってなんだろうと考えたが、どれも中途半端で書き出すほどのことではなかった。時間が経過するほど、怖くなって、これ以上は考えたくないと思った。おそらくこの時が人生で初めて自分自身と真正面から向き合った瞬間であった。自分を見失ったというか、そもそも自分なんて何もないんだって痛感させられた。これまで見ていた自分は、おそらく都合の良い他者や何らかの対象と比較することで現れていた幻想だったと気づかされた。その日は途方に暮れながら、帰路についた。それから5年、毎日のように、頭の片隅で、「自分って何だろう?」、「自分って?」と、自分と真正面から向き合い続けてきた。何か進展があったのかと聞かれたら、満足には答えられないが、いくつかはホワイトボードに書けるような気がする。話を最初の話題に戻すと、最近Web制作を再開した。そして今日、自分のWebサイトを作り直そうと思った時に、大学3年生の頃の思い出が蘇ってきた。先ほども書いたのだが、今の自分がホワイトボードの前に立ったら、いつかは書けることがありそうなので、ちょっとは成長したかなと思う。5年前より前と後での大きな違いは、自分と真正面から向き合ってるか否かだと思う。何かと比較することなく、ただただ自分と真正面から向き合うことは正直辛い。自分がいかに無知で無能で無力かを痛感させられるからだ。ただ、そんな時間を過ごすことで、自分の中に絶対的な時間が生じるのも感じられる。どういうことかというと、他者や何かと比較して自分を評価する場合、世界で一番の人やモノしか評価を得られないし、そもそも未来においてもその対象物が有効であることは少ない。また、比較対象が存在しなければ、あらゆる面での熱が消え、その時々の情景を思い出すことは出来ない。思い出すことが出来なければ、リアルな自己の蘇りもないのだから、自分を見失っても当然といえば当然である。少し話がそれたので、そろそろ終わりにすると、これまでの5年は自分と向き合うことに努力してきたと思う。これからは「遺す」ことをもっと考えていきたいと思う。自分にもだけど、他者にも何かを遺せたらいいなと思っています。最後の方は、話がぐちゃぐちゃになってしまったが、自分がこれまで無視してきた囁きに耳を傾けられたと思っているので満足です。
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